21世紀の幕開けの瞬間、日本画壇の重鎮、平山郁夫画伯が30年の歳月を掛け完成された大壁画が薬師寺玄奘三蔵院伽藍内の大唐西域壁画殿に奉納され、その華々しい式典の様子は、紅白歌合戦に続いてNHKBSで
放送されました。他にも、玄奘三蔵やこの壁画をテーマとした特別番組がNHKや民放で放送され、今、ちょっとした薬師寺のブームです。そんな華やぎの中の薬師寺から、菊池の山深い禅寺、鳳儀山聖護寺へ、松久保秀胤薬師寺管主が、多忙を極める職務の間を縫って唯織学の話をなさるために上山なされます。これは平成12年、聖護寺護持会の広報誌『鳳山』11号に掲載したものです。
唯識講話会に参加して
昨年六月、十一月、今年の二月と合計三回の唯識講話会に参加させていただきました。人の感覚器官に眼・耳・鼻・舌・身の五識があり、これらを統制するものとして第六番目の意識がある。これら前六識は睡眠中には中断しているが、実はその時にも絶えず働き続けている器官があって、それが第七識の未那識(まなしき)と第八識の阿頼那識(あらやしき)です。
未那識は自分の体や心が実体であると自己に執着している心。
阿頼那識はゴミも金粉も一同に収める掃除機の如く、はたまた、すべての履歴を記録するコンピューターの記憶装置の如く、一切の感情、行動、はもちろん、無意識のうちに過ぎた気分に至るまで一所に納めてしまう蔵のようなものです。
しかも、この二つの心は生死をこえて相続されて永く絶えることがありません。遺伝子が、世代を越えて獲得した情報を伝えるように。また、人の体は阿頼那識を伝えるための媒体にすぎません。三回の講話会に参加して、なんの予備知識もなかった私の頭に、おぼろげながら結ばれてきた唯識の考え方というのは大体このようなことです。
松久保秀胤管長は以上のようなことを知識として覚えても全く意味がないとおっしゃられました。
私が自分なりに考えたことは、周りの世界、人や、動物や、草木や、小石などがこれまでとは違って心に写るようになり、それが僅かでも、松久保管長の心の風景に近づいたなら、それが、この講話会で話されたことが毛穴から染み込むような塩梅に、多少は自分のものになった時だろうということです。遙かに遠い道のりなのでしょうが。新米の私には、聖護寺で体験する一つひとつが心に響きます。枕元で聞く梵鐘の音、起床の時の合図、風が枝を鳴らす音、食事の作法、裸足の足裏に伝わる床の冷たさ、線香の香り、お経の声、怖いほどの静けさ。
唯識講話会もこの聖護寺という場所で開かれるからこそ、一段と感慨深く伝わってくるのでしょう。 はるばる奈良からおいで頂く松久保管長様はもとより、過去から現在にわたって聖護寺を支えてこられた方々に深く感謝申し上げます。