先ごろ掲載した『嶋屋日記』連載第六回の中に次のような一文がありました。「元文4年(1739) この年、高野瀬観音堂が建つ。当町の加藤寂水が建立する。」
この時代、1732年には大飢饉で、肥後藩だけで6125人の餓死者が出るとあり、『嶋屋日記』にも「餓死者多数」翌1733年にも「蕎麦の花、粟ぬかまでも売買する。」とあります。寂水が観音堂を建立(復興?)したのはそんな時代です。
『嶋屋日記』に高野瀬観音堂と書いてあるのは高野瀬の横道から玉祥寺の橋に下る坂の取っつきにある「蔵六庵」の事です。
境内に案内板があり、次のように書かれていました。
「 この観音堂は曹洞宗禅宗に属し十一面観音菩薩を本尊とする。主管は高野瀬区で座祭り営繕関係・清掃関係一切を担当している。開基については次の三通りの説がある。
(1)天正十六年(一五八八)建立する説(十一面観音の位牌あり)
(2)延享十二年乙丑(一七四五)徳永寂水の開基とする説
(3)明和元年甲申(一七六四)玉祥寺大清天?和尚の開基とする説。
その後玉祥寺の末寺となっていたと言われている。。今も安産祈願・その他の信仰を得て尊崇されている。菊池三十三観音の札所の中、打留の第三十三番札所である。
昭和六十一年十二月吉日建立
高野瀬区・同公民館
『高野瀬郷土史』編集委員会」00/05/29
『菊池風土記』には 「五・もろもろの神鎮座【観世音】」の項に「所在地:高野瀬村、例祭日:十一月十八日、蔵六庵という。加藤若水が再興した。」とあります。00/05/29