『嶋屋日記』−現代語訳−

2002/05/26更新
 江戸時代の菊池の生活・事件・世相等を書き綴った『嶋屋日記』の現代語訳を掲載します。
  昭和62年に菊池市史編纂委員会より発行された本を底本としています。

連載一回目 二回目 三回目 四回目 五回目 六回目 七回目 八回目 九回目  十回目  十一回目 十二回目 十三回目


『嶋屋日記』について

 『嶋屋日記』は寛文十二年(1672年)から文久二年(1862年)にわたって、菊池郡隈府町の、「嶋屋」の屋号を持った商人−角嶋屋、中の嶋屋、横嶋屋(横屋)、綿嶋屋−によって書き綴られた八冊の古記録です。それらは次の八冊に分かれています。
1. 年々鏡 志滿屋市兵衛 寛文12年(1672)〜安永4年(1775)
2. 年々鏡         横屋九兵衛   元禄11年(1698)〜享和元年(1801)
3. (表記なし)      (なし)    安永 5年(1776)〜天明元年(1781)
4. 永代後用實録日記    岡山仙助    天明 2年(1782)〜天明5年(1785)
5. 永代後用實録日記    宗 文五郎   天明 5年(1785)〜寛政4年(1792)
6. 永代後用實録      宗 文九郎   寛政 4年(1792)〜寛政9年(1797)
7. 年々鏡         (なし)    享和 元年(1801)〜文政8年(1825)
8. 見聞録         中島真親    文化 元年(1804)〜文久2年(1862)
  


『嶋屋日記』連載第一回

2000/04/23
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
延宝4年(1676)  正月1日より雨が降り出し、3月末まで、1日も止まずに降り続いた。4月15日から5月24日までの長雨のため、袈裟尾村の崖が崩れ、その他にも数カ所崩れる。
盆の間も大雨のため、御松囃子、通しものが16日に延期になった。

  5月7日 京都、大坂で大雨が降り、鴨川洪水。
  7月4日 諸国で大風、大雨。

 
延宝6年(1678)  12月22日の晩、町の若者達が喧嘩をした。
 孫衛門・善吉と相手方は仁衛門・太左衛門・新吉。太左衛門は孫衛門を魚切包丁で切りつけた。孫衛門は傷が深く、正月4日に死んだ。仁衛門は善吉を腰差で数カ所切った。
 太左衛門,新吉は翌晩捕らえられ隈府の牢に入り、正月18日に保釈金を払い、出獄する。
 太左衛門銀百目、新吉八十匁、仁衛門七拾目を出した。この銀は、孫衛門の妹婿に百五拾目、善吉の親に百目渡された。善吉の傷は治った。
 
貞亨2年(1685) 5月 国中の忠孝をした人を奉行所に招き、それぞれ褒美として米や銀を授ける。
  葦北郡野中村のちよ、養父に孝行したので、一代毎年米五俵
  宇土郡大見村の四良兵衛、父に孝行し、下働きの者にも慈悲をもって召抱えたので毎年米を十俵など

8月 水戸光圀の家来、佐々助三郎殿と丸山雲平殿が国を回られ、その節正観寺に参詣された。宝物をご覧になられたり、諸国でも古跡をめぐられたりされた。
同下旬に当町に1泊された。宿は中町の清衛門の所。

訳者注−水戸市史によると、貞亨2年九州を視察という記録がありました。
  佐々介三郎宗淳(佐々十竹)、丸山活堂という名前がありましたので、多分これ に該当するものと思われます。
 五箇庄住民に紛争あり。益城郡砥用・八代郡四浦へ男女37,8人ずつ移住。
 幕府、五箇庄を天草代官支配に移す。
 この年初めて銀札通用、町在に札座設けられる。また寺社本末改め行われる。

『図説 熊本県の歴史』−河出書房新社−より(以下同じ)

貞亨3年(1686) 3月2日、わいふ町に影踏みが命ぜられる。
男女1149人、男653人女496人 踏み終わった後、迫間に集まる。

(翌年貞亨4年4月21日にも1172人が影踏みをした記録がある。)

 
貞亨4年(1687) 川上三左衛門自害。切支丹信者のため、翌日、郡奉行衆の御目付役、中嶌七良左衛門が出向かれ、死骸を改め、家中くまなく調べる。
切支丹宗派のため、、明確な調書を提出させる。 三左衛門の母と女房から1通、五人組から1通、町庄屋から1通、郡奉行衆から1通。
 三左衛門の死骸は塩づけにされ、旦那寺の岩本村円通寺に埋葬された。
三左衛門は葦北郡田浦村、知運の婿で、この知運が転び切支丹だった。

10月4日、若殿様が誕生された。〔細川与一郎様〕
 江戸から飛脚が着き、国中にお触れがあった。村村では、お祝いの踊りやあやつりがあり喜びに涌いた。
「若殿様に狂歌師の長崎一見が狂歌を奉納」

 大国を治る手には民をなて、また寿福をもいたく若君

 生類憐れみの令
貞亨5年(1688)
元禄元年
7月14日、細川丹後守の母恵照院様が死去されたので23日〜25日まで 賑やかしいものや、狩猟、漁を禁止する。

18日、熊本段山の松が風も吹かないのに折れ、二の丸のほうへたおれた。
22日、また同じ所の大松が折れ、春日の鐘掛松も同時刻に折れた。不思議な出来事だったので見物人が多く出た。
28日、祇園山より二の丸のほうへ大きな火の玉が飛んだ。
熊本ばかりでなく、この辺までもいろいろなうわさが飛び交った。

 この年天草大矢野組、従来島原班預かりのところ、天草代官支配となる。

『嶋屋日記』連載第二回

2000/05/19
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
元禄1年(1688)  2月5日、捨て馬禁止の高札が立つ。 貞亨4年(1687)に生類憐れみの令が発令
元禄2年(1689)  7月14日、郡奉行が深川にお越しになられた。
合志郡大津の横井という所で、9日に鹿毛の老馬の死骸が発見されたので馬主を取り調べるため。

この馬は高野瀬の小左衛門が馬食町の勘衛門よりもらい、7月5日に牽き帰ったが6日の夜明け頃に死んだと供述した。

小左衛門は16日朝、熊本へ鉄砲衆8人に連行された。
母おや、兄市之丞、弟喜衛門は捕らえられたが、18日に牢を出され、五人組・村庄屋に預けられた。

隈府町善次良は勘衛門の所に居合わせたので、小左衛門に馬を引き渡した時の事情を取り調べられるため16日熊本に出向き、役割所に即刻収監された。

9月6日、小左衛門の兄、弟、伯父、伯母、母が熊本に召し出され、9日に伯母と母は釈放された。

11月3日に、兄市之丞、弟喜衛門、善次良が釈放され在所で引き取る。
小左衛門は、釈放されなかった。

訳注−今回は「生類憐れみの令」に関係があると思われる部分を訳しました。
 7月14日が細川丹後守の母恵照院の一周忌であったことと関係があるんでしょうか?
 

『嶋屋日記』連載第三回

2000/05/31
    
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
元禄2年(1689)  12月3日、御奉行衆が隈府に来られ、古城跡の絵図を調べて完成させるよう言い渡された。その他、鳳来山・寺小野・玉祥寺・北宮・正観寺・菊の池の古所も調べられ、これらの絵図も完成する。        
元禄3年(1690)  6月18日、当町牢人岡十助が江戸へ引っ越すことになり、当地を出発し熊本の親類の所へ行き、役所に引越しを願い出る。親類衆からも奉行所に願いを出し許可がおりた。
訳注−牢人:失業した武士階級の人のこと。浪人と書くように思われがちだが、この書き方が正式です。
 12月1日夜10時ごろ山鹿湯町で火事があった。火元はわいふや作衛門のところ。 上は端まで残らず焼け、下は百軒ほど残った。だんぎ所も残らず焼けてしまった。
 
元禄15年(1702)  12月15日、播州赤穂浪人17人が預けられ、三宅籐兵衛、用人鎌田軍之助、小姓頭平野九郎衛門他、物頭、騎馬40騎で即刻請け取りに行かれた。 預けられた人数・名前は次の通りである。 白銀屋敷にて、翌年2月4日に切腹を言い渡される。

大石内蔵之助 知行 千五百石 介錯人  安場一平
吉田忠左衛門      二百石      雨森清太夫
原宗右衛門      三百石      益田貞右衛門
小野寺十内     百五十石      横井儀右衛門
堀部弥兵衛    二百五十石      米良市衛門
近松勘六       三百石      横山作之丞
赤垣源蔵       二百石      中村角太夫

 他10名の浪人の名前と介錯人の名前が記入されている。
義士の死骸は泉岳寺に送られた。のりものに高ちょうちん1張、足軽弐人、 騎馬前後に乗り、侍数10人で警護して行かれた。
その他、10人が松平隠岐守様お預かり、10人が毛利甲斐守様お預かり、 9人が水野監物様お預かりとなった。

 

 浅野家遺家臣大石良雄ら17人、肥後藩に預けられる。翌年2月4日切腹。

 


『嶋屋日記』連載第四回

2000/06/19
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
宝永4年(1707)  10月4日 大地震。24日もまた大地震があり、火の玉が飛んだ。

 25日の晩より銀札騒動が起こり、多くの人に影響が出た。
 米は札にて150匁、粟70匁、その他穀類が高騰した。
 25日より11月3、4日まで、質を残らず請け切る。もっとも質地のため出し入れが多く、札が流通している国中21ヶ国すべてが引き替え停止となった。
 12月3日より、徐々に金銀に引き替えられた。
 引き替え所は、熊本坪井の宇治屋三良右衛門、三丁目出良寿斎。
 当郡は12月17日より21日まで引き替えのご命令が出る。
 当町には、銀札2貫目余りを有す。

   11月4日、昼ごろ、俵騒動が起こる。横目付を差し向け事情調査をしたところ俵物を隠した事実はなかった。その後、諸方に聞き合わせたら騒動を起こしたものもあり、俵物が所々で少し紛失していた。

 銀札1貫目は、銀250匁に引き替えとなる。
   師走12月26日までに札の引き替えが終る。
 米 80文銭17匁になる。
    

訳注−銀貨(丁銀、豆板銀など)は秤量貨幣であるから、いちいち秤にかけて、その実際量を値とした。  1貫=1000匁。   主に、大坂を中心とした西日本で用いられた。
  銀札 藩発行の紙幣(藩札)
     
 3月6日 熊本城下大火、侍屋敷78・町家1036・寺18・百姓家20消失。

10月4日 肥後国地震、人吉城大破壊。

10月 幕府より紙幣使用停止を命じらる。本藩でも引替に着手するも、銀不足し、一部は証文で渡す。

宝永5年(1708)   去年10月4日、大地震で大坂の人・家・橋・船に被害あり。
 道頓堀、堀江川の橋83落ちる。
 死者 8万3700人余り、内300人は新地の遊女。
 家の被害 11万52軒(家持4万47軒 寺25ヶ寺)西国船 500余り大坂 上方荷舟・茶舟・剣先舟700 余りに被害がでた。

    正月の報告では、富士山の麓、足高山の間で吹き上げ、その近在では3日3晩砂が降ったということである。その砂は白いもの黒いものがあった。
 砂が降ったことに対してのお見舞いとして、高10石に8匁4分6里6毛の割り当のご命令が出された。
 隈府町よりも590目余り出した。
 日本国中残らず銀を出すようなことは、近年珍しいことであった。        

 

『嶋屋日記』連載第五回

2000/07/19
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
宝永6年(1709) 8月 川尻の木村安左衛門 銭400貫目を献上し、役付き700石扶持となる。

(訳注−1文銭1000枚を一貫とする。1石は100升、10斗、約180g)

 
宝永7年(1710) 正月25日、高10石につき3匁5分の銀を納める。

5月に又、高10石につき9匁を上納するよう命令がでる。

6月も同様に高10石につき8匁を納める。

これらは、大公様の御座所を建築のため、日本国中に命ぜられる。

(訳注−1匁は約3.75グラム)

 
正徳元年(1711) 8月15日 熊本宮内の大楠が焼失する。樹齢800年の古木だった。  
正徳3年(1713) 5月 細川宣紀様 家督を継がれ28日に入国された。  地方知行の直所務を廃し、再び蔵米支給となる
享保8年(1723) 11月22日 朝8時ごろ、大地震で北宮の鳥居が落ちる。前代未聞のことであった  この冬、櫨仕立て始まる
享保9年(1724) 8月14日 大風のため田畑に被害がでる。粟1反につき1石、又は2石のところも出る。

10月 江戸で大火事があった。

 
享保11年(1726) 4月16日 大火事が発生、火元は上町の平右衛門のところ。町中一軒残らず焼失する。寺々なども焼ける。  
享保12年(1727) 12月3日 町中、またまた大火事になり一軒残らず焼失する。もっとも西照寺 極楽寺は無事であった。火元は、中町の伊左衛門の馬家より出火。打ち続く大火事で、町中困窮する。  

『嶋屋日記』連載第六回

2000/08/13
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
亨保17年(1732) 8月末、田畑ともに収穫がまったく無い。役所より俵物の調査があり、古穀物を書き上げ、所持している米など没収される。

 冬季になると、椎の実、樫の実、また葛根を取りに山に登る。
 国中の酒造禁止が言い渡される。
 飢饉のため、所々に餓死する人多し。

 幕府、西南諸国の虫害を受けた諸大名に拝借金を許す。本藩、11月23日金2万両拝領。
 夏・秋期の損耗高47万8190石を幕府に報告する。幕府より、25年通用を期限として銀札許可せらる。
 この年、御勝手向差し支え、町・在に寸志知行拝領を許す。

 この年、本藩の餓死者6125人。

享保18年(1733)  蕎麦の花、粟ぬかまでも売買する。  この年、銀札中止。
 前年から両国筋大飢饉。
元文4年(1739)  6月18日の夜、宇土、八代で大洪水があり死者多数でる。

 この年、高野瀬観音堂が建つ。当町の加藤寂水が建立する。

 
延亨元年(1744)  11月ころより、掃星(彗星)が西方に出る。夕暮れのような薄い光をだしている。明くる年の正月中旬までに消えてしまった。  この年、櫨方受込役人をおく。
延亨5年
寛延元年(1748)
 8月4日、雨乞いをしてくれるよう願いを出したところ、早速実施することとなった。
 9日に深川河原の両手永(郡方の役人、手代?)が北宮に揃って雨乞いをし、13日に東福寺でも集まり祈願したところ夕立があった。
 15日にも北宮で揃ってやったところ、その夜もまた雨が降った。
 同じく18日今村川原に揃い、西寺、野間口より上がり、町には夜に入る。

 9月2日、夜8時ごろから大風が吹き、正観寺馬場の松35本が倒れる。町中で83軒、会所2軒も被害にあう。その他、所々で大木が倒れた。
 60年巳以来の大風だった。北宮神殿の屋根を大木が倒れて崩し、社内では10本ほどの倒木があった。

 細川重賢、藩主として入国。重賢、直書をもって当時の宿弊5項をあげ、いわゆる「宝暦の改革」始まる

『嶋屋日記』連載第七回

2000/09/28
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
宝暦7年(1757)  7月、隈府町の御松囃子・通し物の由緒について、公儀からお尋ねがあったので、昔、菊池武光公の代より今に伝えられていることを、書面にて申し上げた。
 この時節、国中の盆おどりなど近来より行われているものは、衣装禁制が言い渡された。木綿の類までとのお達しに、中止になったり半減したところも出た。
 隈府町の儀は、昔から伝わっているものなので、以前より所有している衣装を使用して怠ることがないようにと申し渡された。
 地引き合わせ(検地の一種)を命じる。田添源次郎、緒方九郎右衛門らこれにあたり明和6年(1769)に終了。

松井豊之、八代に伝習館(文)・教衛場(武)の文武稽古所を設ける。

宝暦11年(1761) 大御所様(徳川家重)が、ご逝去されたので、6月25日から8月2日まで穏便に過ごすようお達しがあった。これにより、御松囃子を25日に、通し物は23日の晩より25日の晩まで3夜連続演じられた。 玉名郡中富手永の島已兮、養蚕機織伝習のため京都・近江に出発。翌年7月熟練の女工を招き、熊本に織物・製糸業を興す。
宝暦12年(1762)  8月から10月頃までに、水次村川原で鉄の掘り出しが始まる。
 前年より斎藤長左衛門・森十右衛門・北川又左衛門・伊村左次良が調査し、公儀には鉄は300貫目ほどで、常に30貫目の出方があると報告する。石見より80人ほど雇い、菊池中の鍛冶も動員された。炭は穴川・鳳木より出し、近村の大木は残らず切り取られた。

 (1764年8月 鉄山中止、石見の80人帰る。)

 家老有吉大膳立邑、堀勝名と対立し、隠居・蟄居を命じられる。この年、天草郡高浜村庄屋上田伝五郎右衛門武弼、高浜焼の窯を始める。
宝暦13年(1763)  9月8日 隈府町大火事。昼2時より暮れまで1軒残らず焼失、寺は無事だったが西照寺のくりは焼失した。火元は横町の横屋吉良左衛門裏のからもの蔵から出火。藪の内横道は焼け残る。2人焼死。
 昔から、御松囃子・謡い興行などで呉服芭蕉の番組をしたときは、必ず火事が あると言い伝えられている。
 この年、高橋町に製蝋所を設ける。宇土支藩主細川興文、学問所温知館を設立。
明和3年(1766)  太守様(細川重賢)、7月21日より24日まで、西寺村佐藤七郎右衛門宅へお 越しになられた。
 山鹿町より水蔦村に移られ、野方邊田村上原にて鷹狩をされ、西寺には21日 暮れがたにご到着された。
 23日には、花房原にて鷹狩をされ、24日に帰られた。御供は300人ほど。
 当初、隈府町へ来られる予定で、御本宿、その他宿舎の下見があったが、先年と違って、出火後、家数が無く西寺に決定した。
 御本宿、宿舎には、隈府町から若者が手伝いにいった。
 

『嶋屋日記』連載第八回

2000/11/24
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
明和5年(1768)   3月10日、夜7時ごろ玉祥寺より出火、仏前あたりから火が出る。本堂、庫裏は残らず焼失する。羅漢堂、鐘楼門は焼け残った。風は東風だったけれど、町中大変心配して、空物蔵などに皆々上り、用心した。
 本堂は57年以前にこの地に建立され、この年まで成就してきたが、一瞬にして燃えてしまった。
 火事の原因については、いろいろな噂が流れた。西迫間村に菊池殿の家老で
忠直(隈部)の墓木があるが、大木の杉5〜6本のうち2本ほど切り取り、本堂の普請に使った。その杉より火が出て、焼失したという噂である。
 昔、極楽寺で墓所の杉を切ったところ、木の切り口より血が出たり、木を切り倒した者の中には、怪我をした人も多く、また、帰ってから足を痛めたり、口がゆがんだ人もいたと伝えられている。
 天草を日田郡代揖斐十太夫の預かりどころとする。

 五カ年間格別省略につき家中手取りを15石とする。

 田沼意次、御用人となる。

 明和事件

明和6年(1769)    10月中旬のころより、11月14,5日ころまで、国中の鎧、兜の類や、太刀、長刀、馬具などの売買が盛んに行われた。理由はわからないが、家中も何やら騒々しくなった。
 この折り、長州舟木より長衛門と申す者が、当町に参り、武具や馬具を使用のためと、赤星村より大変古い槍を2匁5分にて買い求めた。当町の若い者に見せては、いろいろ名をつけ、銀150目ほどで売れるだろうと言っていた。
 10月19日の夜、霜風が強かったけれど、その夜11時ごろより、その槍を担  ぎ、他に脇差4,5本持って、熊本の町中を駆回って売ろうとしたが、取り上げて見る者もあまりなく、21日に帰ってきた。もっとも、1,2ヶ所で38文にはなった。道中、小遣い、飯代に10匁ほどの出費。

   狂歌   2匁5分槍買て長戸長右衛門熊本
         150めとろと10匁損する

 この長衛門は、当町香具屋市良兵衛の家に年季奉公にきており、秤の緒かえ、鏡みがき、稲こきの修理など、その他いろいろな仕事をしていた。大変欲深い人間のため、このようにだましにあう事が多かった。

 
明和7年(1770)  正月中旬ごろ、御備頭木下平内殿へ知らせが入った。内容は、天草表に唐舟が漂着した時のために、人数を配置し、武具、馬具の備えあるようにとのことで、騒然となったが、何事もなく無事に済んだ。

 6月11日 国中に、白毛が降る。長さは4,5寸〜7,8寸(12p〜24cm)までで、雷雨の後に降った。

 往還筋に石または木で表示を立てさせる。

『嶋屋日記』連載第九回

2001/02/09
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
明和8年(1771)年     2月27日、横屋九兵衛方で、木庭村の弥吉という丁稚が,シラミ殺しを家内の下男3人に飲ませるという事件があった。 命を落とすところであったが、いろ いろ手を尽くしたので助かった。

 4月25、6日より6月1日頃まで、京・大坂で大麻が降った。


 諸国からの抜け参りが多く、宝永2年酉の年よりも参詣が多いという評判である。
 この折り、横屋伝次・文五良・忠平・西寺村の城権兵衛・甚七が2月11日より都へ旅立ち6月3日に下った。
 伊勢地のわらじは1足38文したということだ。
辰巳屋・鴻池・三井などの富豪が、八百貫目〜千貫目ほどの施行をし、また、町々に応じて五十貫文、百貫文を寄付した。

 九州表でも大麻が降るという噂が立つなど、色々と不思議なことがあった。

  (註:大麻 伊勢神宮のお札)

天草郡の百姓、大庄屋の出米に非違ありとして騒擾。大庄屋の譲歩により解決。

この年、人吉藩士石田伝八、一勝地焼(陶器)を始める。

明和9年(1772)    2月29日、お昼ごろ江戸で大火事が発生、目黒行人坂より出火し、蒲生縄手という所で鎮火した。
 3月1日まで3日燃え続けた。(註:この年の2月は大の月で30日ある。)

 太守様(藩主 細川重賢)が上野に出向かれ一昼夜火の番を勤められて、30日の昼、白金のお屋敷に引き上げられた。  出火のため、高値になったものを記しておく。

  1.大工一時雇い10匁
  1.縁なし畳500文
  1.草履一足32文
  1.膳椀10人前金1両  但し3日借り

 目黒行人坂より蒲生縄手まで9里ほど、数知れないほどの焼死者がでた。
 松平下総様の奥方や大名の奥方が焼死され、お供の女中が自殺。
 新吉原傾城町の橋場乗真寺では、大勢が避難していたところ、煙に包まれ遊女や男女千人ほど焼死。
 お大名屋敷160余り焼失する。
 明光寺には26人の坊主がいたが、6人が焼死、残り20人は井戸に飛び込んだり瓦が当って死んだ。
 麻布方山で小児を抱き女が焼死、この女の足にすがって七才ぐらいの男の子も焼死。

    江戸火事に付き、下方に応じて五百目、一貫目のお見舞いをする。

この年、高橋・川尻・小島に天草問屋を置く。 

『嶋屋日記』連載第十回

2001/04/23
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
安永2年(1773)       3月11日より中町長平を同道して、広島へ夏の古着を買い付けに行ったが、思いのほか高値であった。  宮島では、疫病が流行していた。  問屋本川筋の出雲屋善三郎方へ25日に到着、4月8日の夜広島を立って、16日に帰って来た。  広島に滞在している間、毎日毎日昼時分より死人が5人、6人と出て葬った。  極々都合がつかないものは夜に入っても葬ることがあり、終夜5人、7人と寺へ送った。  広島町中で死者が2500人程になったことを滞在中に聞いたが、その後詳しいことは聞いていない。

   8月23日、長岡桂山様、横屋九兵衛宅へお出でになられ、隠居新宅へ入られた。
 新宅お祝いとして藻鯉の懸物を頂く。九兵衛には桔梗の御紋の上張を、家内のものへはたばこ入れを頂いた。

   5月の頃のこと。山鹿新町近くで30歳ほどの女が暮れから行方不明になっていた。  毎日諸方を尋ねてまわったが、消息は分からずそのまま日が過ぎ去っていた。  その隣の家の者が田の草とりに行ったところ、ツバメが1羽その男のところに舞い降り、  田の4〜5反脇の池のところへ飛んでいった。また男のところへ舞い降り、数10回行きつ戻りつした。  この男、不審に思って池のところへ見に行ったところ、池の中ほどに死骸があり、引き上げてみたら行方不明の女だった。

 9月25日、下田の川原一本松の下で西寺村佐藤七郎衛門殿の家来4,5人で獣を捕らえた。  体型は中犬のようで、毛荒く、毛色は黒、足はヅクヅクとしてもぐらのようである。  目は3寸4,5歩で鏡のごとく、人をにらむと大変恐ろしく、尾は犬と同じである。  鼻先は長く、口は耳の下まで裂けている。歯は馬の歯のようである。  丁度、松尾社のお役人衆がいらしていたので、この獣をお見せしたが何の獣か分からなかった。  この獣は当町のものと借り受け、祭礼中に金100目を取り見世物にした。  お役人がお帰りのとき、獣を3人で役所へ連れて行き、土熊と命名した。  食べ物はどじょう、はへなどである。)

       

『嶋屋日記』連載第十一回

2001/07/23
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
安永2年(1773)       10月25日より極楽寺で四十八夜が始まる。
 11月23日に赤星川原で川施餓鬼がある。正法院、源覚寺その他多く見えられ  賑やかな法会に、昼過ぎより見物の群集が多く集まった。
 極楽寺和尚は毎朝近在を托鉢してまわり、1日に白米1俵ほどになった。  12月13日までの法会に参詣は減らず、いつも御堂はいっぱいだった。
  
(註)施餓鬼:仏教の法会のひとつ。餓鬼世界に落ちて飢えに苦しんでいるという無縁の亡者のために、読経し飲食を施すこと。
 辰の8月5日、長崎より崎太夫という浄瑠璃語りが中嶋屋伊次郎方に来る。
 大阪の生れである。三味線瀬高源兵衛。
 9月2日まで、大変大当たりし近在だけでなく山鹿新町辺りの人たちも集まって来た。
 影踏みの時の3倍程の人出であった。
 西照寺・極楽寺の御堂はいっぱいになり、門内にも多くの人が集まった。
 当時、九州へ下る太夫にこれほどまでの人気の太夫はいなかった。

 12月20日の晩、庄屋河原長左衛門の蔵の窓鉄がはずされ、鳥目7百目盗まれる。
 夜明け時分に在の人達と山の方を捜す。野間口村の上でふご(かご)に鳥目を入れ歩いていた者がいたという。その辺りから水次川原の近くに隠したものとみられ、野間口、水次川原辺りを昼夜捜索したけれど鳥目の行方は分からなかった。
 翌々晩、手代嘉次郎が4,5人引き連れ橋のほとりで終夜吟味していたところ3人連れが盲馬1匹引き通りかかった。どちらへ行くのだと尋ねたところ、馬を捨て3人とも逃げてしまった。この馬を捕らえ、会所に引き連れ、馬くろうに見せたところ南ノ関近くの馬 ということが判明した。
 庄屋はこの辺りの事情を調べたところ、久井原より召し抱えた権平という者が鳥目の置き場所を記して出奔していた。手代の嘉次郎に出会い盗んだことが判ったと思い出奔したようだ。
 翌昼の正月5日に久井原より権平の親、兄弟、5人組が来て、書置きの通り、水次川原を捜査したところ、川の中に砂をかぶせて隠してあった。この場所に鳥目五百目があり、残り2百目は久井原に置いてあった。その内20目ほど使われていた。

       

『嶋屋日記』連載第十二回

2002/01/27
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
天明5年(1785年)       宗伝次、大坂京江戸日光見物。
 2月22日に出発、大坂、京、江戸から日光山を参詣し、9月14日に帰宅する。京まで弥吉を召し連れ先に帰す。  江戸へは高瀬町の久左衛門をお供に、江州(近江)草津の九兵衛と申す者を雇い、荷物・挟箱を持たせた。

 3月18日、大坂へ着き、26日に京へ上る、4月12日に京を出発し、東海道尾張名古屋を見物し、 それより身延山、江ノ島、鎌倉を回り、5月4日江戸に到着する。

5月12日に江戸を発ち、日光山に参詣し、信州善光寺より木曽路を経て、 関ヶ原から北國路に入り、越前敦賀まで参り、西近江へ出る。 白髪明神・浮御堂を参詣し、6月4日京へ到着する。

6月22日、大坂に下り、7月3日に再度京へ行き、13日に大坂へ戻る。 8月26日の夜、兵庫の船で魚屋清八の船に乗船し9月7日下関に着く。 10日に下関を出発し、14日に帰着する。
       
天明6年(1786年)       6月1日ころより雨が降り出し、7月8日まで降り続く。
 6月29日に大洪水になり、長六橋・御水道が流された。
       
寛政4年(1792年)      正月18日肥前雲仙岳噴火。  2月6日同所前山噴火。
 3月1日 地震が度々起こる。
 3月5日 4時ごろ大地震発生。
 4月中旬ごろ、度々揺れる。
 4月朔日、夜暮れ時分、津波が起こる。

 女石・沖ノ須・清源寺・長須・河内・近津辺りより網田まで、死人8000人余り、前代未聞の災害となった。  島原では、一万人ほどの死者がでた。

 雲仙山の前嶽が崩れ、海中に大山が5つ新たに出来た。
 清源寺の堀部九衛門の嫡子、章助が溺死した。
 嶋原さま山田という所へ避難された。城下は崩れたが城の者は無事だった。

 熊本より後藤太兵衛がお見舞いの使者として差し向けられた。
       

『嶋屋日記』連載第十三回

2002/05/26
年月日 本     文 県域・国内・海外の出来事
寛政8年(1796年))       太守様(細川斉滋公)、10月9日に菊池へ遠乗りに来られた。
 井手端の新宅へ10時ごろ入られ、しばらくご休憩の後、下町、中町を通って古城へ上られ、 天主跡に床机を置いて方々ご見学のあと、院馬場、藪内を通って又立ち寄られ、しばらくご休憩の後 3時頃ご出発された。夕方6時ごろ花畑に戻られた。お供の人々は、文五良宅で控える。

 9月29日 御郡代長沼十良衛門様より、太守様お立ち寄りのお達しがあり、1日より湯殿、便所を新設し、  他にも品々を新しく取り揃える。古城へは文五良がご案内した。

1、風呂桶−1  1、たらいー1  1、御手水たらいー1  1、御手拭ー1     1、御刀掛ー1  1、座敷 御上段 一巻  1、畳8枚−新床     1、その他残らず表替え、  1、障子残らず張り替え

10月8日 
1、御成御門 一巻  1、同前橋 一式
       
宗伝次日記
安永5年(1776年)     
8月15日、八代海より川内海にかけて、黒汐が発生して魚貝類が多数死ぬ。
 川尻、熊本でこの貝が出回り、食べた者はあたって病気になった。

 11月3日夜9時ごろ、宗伝次宅に狸が出た。
 丁度、熊本からなをと申す女が来ていて、風呂に入っていたところ、この狸が歯をむき出しにらんだので「狸が出た〜」と叫んだら、下女2人が後方へ追いまわし、風呂の前を抜け家の中に入ったので  大勢で捕まえようとしたところ釜の下に逃げ込んだ。
 藤田村の喜三という雇い人が割り木で一撃して殺し、そのまま皮を剥ぎ、細々にして大根・牛蒡の切込み汁にして  家の者や近所の人々で食べたところ、風味が格別で美味しかった。
 この頃、珍しい事だったので、書き記す。

       
安永6年(1777年)       6月21日、高野瀬村の広瀬長助の倅が、玉祥寺船場の向こう、水車の打ち出しで 兄弟で水浴びをしていたところ 川太郎に取られた。
この子、5月の初めに疱瘡が軽くすんだので、両親が喜んでいたところであった。
村中大騒動したが、すぐに死骸があがった。
       



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