『嶋屋日記』−現代語訳−
 連載14

 江戸時代の菊池の生活・事件・世相等を書き綴った『嶋屋日記』の現代語訳を掲載します。
 昭和62年に菊池市史編纂委員会より発行された本を底本としています。 04/05/12
連載1〜13はこちら

安永7年(1778年)

 岡山惣衛門の家に、西迫間村の宇吉(当年17歳)という丁稚が5〜6年前から奉公に上がっていた。
 その者、主人に厳しく叱られ、7月5日の晩、家に宿泊したいと申し出て帰ったが、翌日の昼頃までに戻ってこないので、主人は不審に思い、迫間村へ人をやったところ、家には帰っていないことが判明、騒動になった。
 
 方々へ5人3人と人をやり、毎日捜したが居所がわからず、西迫間の川を越えたため、水にはまって溺れ死んだのではないかと、川の深みを捜したりしたが、その形跡もなく、筑後鹿の丞や、その他方々の考(易?)でみてもらった。

 いずれの考も、死んではいないということであった。
 その後、熊本家中に奉公している者から、廣丁で逢った者がいると聞けば、親たちは早速熊本へ行き、逗留しては町の隅々まで尋ね歩いたが雇っている者もなく、また、津江の山に入ったなど、いろいろの噂に親類中も捜しあぐねて、そのまま日にちは経つばかりだった。

 主宅は、そのままにしておくことも出来ず、山本郡 平井村の荒木権太夫という考の名人が7月末 廣丁の伊兵衛に雇われていると聞き、早速尋ね宇吉の名を告げて考をしてもらった。

 その結果、命にかかわるようなことは無く、主人の家より東あたり海山数十里を隔てたところにいて、閏7月過ぎの8月8日あたりには間違い無く生所の近くに帰ってくるという。

 親たちはこの考を力に、心待ちに月日を過ごした。

 8月8日、大風が吹いた後、この村の幸衛門が折れ木を取りに山に入ったところ、明き俵を着た宇吉が山にいるのを発見し早速親元へ連れて帰った。
 両親の歓びは大変なもので、親類 近所の人達も大勢寄り集まった。
 どこへ行っていたのかと尋ねたところ、宇吉が言うには

 7月5日の晩、山鹿へ行ったが8時過ぎてしまい、肥猪に行くには夜も深けてきたので近くの神社で夜を明かした。
 それからは順々に道を歩き、下関に渡った。
 ここで中国の三味線弾きに出会い、53日も荷物担ぎとして連れ歩かされ養ってもらった。
 その後、隙を貰い金毘羅など道中さまざまな所を見物し、大阪まで来た。
 ここでは、一日一夜 天王寺 大阪城を見物し、伊勢に行こうと思ったが、帷子(夏衣)一枚で気ままにしのぐことができずここを発つことにした。
 持っていた三尺手拭で袋を作り、物乞いして命を繋いで帰ってきた。
 出奔して63日ぶり、その間3日ほど食わずに17日間 野宿という厳しさだった。

 このごろ珍しい話しなので記すことにした。


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