大正三年、徳富蘆花の隈府紀行

 徳富蘆花は熊本県水俣の出身ですが、奥さんの愛子さんは本文中にもある通り、菊池郡隈府町の出身です。古本屋で、蘆花夫妻が始めて隈府を訪れた時のエッセイを見つけたので掲載します。当時の隈府の様子が詳しく描かれています。
 本書の171頁に「余が最後に(熊本へ)来たのは十九年前の春日清戦争の末方であった。」とあり、逆算すれば、ここに書かれている蘆花夫妻の来熊は大正三年の秋と思われます。

蘆花文選(大正八年一月十五日 「蘆花会」発行)上巻

故郷の山水

七 妻の故郷

イ 隈府行
 

 明くる十月四日の朝、菊池に出かける。熊本に成長しながら、余はまだ一度も妻の故郷菊池を見たことはないのだ。熊本から菊池の首脳隈府町まで六里、近頃軽便鉄道が開通している。坪井停車場から乗る。車内すし詰めの盛況を何かと思へば、明日が菊池神社の祭礼であった。
 小さな汽車は、汚い煙を吐いて、熊本を後に、北を指してがたがたと走る。田色づき、粟垂るる平蕪。藪蔭の村。埃立つ街道。汽車の窓からは山も見えず。單調な景色に二時間近く惱まされる。
 やっと汽車は平原の端に来た。甘一里ばかりの谷が足下に開けた。所謂菊池谷である。田が黄ばんで居る。空色に川が流れている。川向ふの山下には、大分人家の集團が見える。
『あれが隈府ですよ』
嬉々と妻は指さすのであった。毎度話に聞かさるる子供時代に母に連れられ熊本に出た帰途、駄馬に乗って日の暮れぐれにこの坂の上まで来ると、谷の彼方町の灯がちらちらと見え染め、もう此処が吾が家と嬉しかったと云うのは、さもこそと思われる。汽車やはうねうねと坂を傳って谷に降りた。やがて水浄い菊池川の木橋を渡って、新設の停車場に止まった。車ですぐ隈府の町に入って、菊榮館に上り、晝飯を済ます。

ロ 菊池城址

 見物は先づ小学校のあたりから始める。町の東南のはづれ、井出町と云ふそうな。四十年前此の山の町に生まれて十一まで此処で育った妻が、寺子屋式に文庫など持ち込んで提灯つけて朝手習ひなどした其処には、立派な尋常高等小学校が新築され、石門の前には大きな柳が居々と糸を垂れている。此方の路傍にせぜらぐ小川には、昔家鴨や鵞鳥に追いかけられて怖かった処と彼女は語る。門前の柳の下に三十年前の舊女性を立たして撮影を試みていると、校長らしい年輩の人が不思議そうに見ていた。

 小学校からまた車に上り、町の東側をがたごとと城山下で降りる。城山は即ち菊池の城址。山下の馬場から山上へかけ山桜の古木多く、落花の風情が偲ばれる。菊池の城はもと今の隈府の南西深川にあったが、平城であったため武光の子武政の時代に此処に移った、と伝えられる。西北、迫間川を近く、東南、菊池川をやや遠く控え、後ろは山の後ろ盾、絶壁三面、東は岡つづきを人口で切り下げた此の城は、銃砲のない昔はかなり堅固な城であったろう。菊池の荘は古来宮家の領で、菊池の祖先がその荘司であったを、北条が取り上げて武家領にしたため、菊池は皇室を戴いて決起したと言ふことである。楠菊池は逆境の天子に尽くした芳しい臣節の好一対、中央にいたため足利の圧迫を被って手も足も出なく楠氏はなったに引替、菊池は西睡に位地隈をしめて自由が利いただけに命脈も長く手腕も伸びた。征西将軍の宮を奉じて、修好の使いを明や朝鮮にやったり、孔子堂を立てて釈奠をしたり、足利の天下に別に一地敵国を作って、大いに菊池の花を咲かせた当年の意気が偲ばれる。

 樅の蔭うつ本丸址を見る、征西将軍の宮の手植えから将軍木と称する大きな椋の木があるそうだが、それは見なかった。菊池代々の粋を抜いた武時、武重、武光、武政、武朝が祀られている菊池神社に詣で、社務所で絵はがきを求め、銀杏の実など拾ふ。平坦な山上は、例祭前の人で多く、庇髪の女に扮した新俳優などが歩いて居る。

 日露戦争忠魂碑の立つ昔の出丸址に行って見る。パノラマの観望台のような此の丘は、眺望にもってこいである。北は豊後境、筑後境の山々が北風を遮って彌次々に並んでいる。『筑紫なる八方ヶ岳の麓にぞ鬼とりひしぐ武士は住め』と古来菊池の武威を象徴した八方にらみの八方ヶ岳も此の方だが、此処からは見えない。東は阿蘇つづきの山々が菊池谷の頭を屏風のごとく囲ふて居る。中に著しく名にふさわしい鞍ヶ岳が指さされる。鞍ヶ岳と八方ヶ岳は、菊池鎮護の二名山である。西は山鹿から高瀬、南は谷の額を見越して熊本の附に打ち開けている。若し夫れ谷其のものは、開鑿者の重なる菊池川のお所々白光る蒼い流れが、肥後第一という米を実らせて谷一杯に金の波打つ稲田の中をのたうち、其田の金を点破して、千家の町は木立の村に連なり、近い白亜の閃きは遠い煙と相望み、其一切に注ぎかけて秋十月初めの午後の日が谷に溢れて居る。明るい豊かな眺め。百年前も大した違いはあるまいに、『菊池村老三両家』とは実際を貴ぶ頼山陽に似合わぬ嘘。先生蓋し菊池に立ち寄る暇がなかったのであろう。香ばしい鮎、甘い苔を育てる清い水の菊池、米の国の日本に群を抜く見事な甘い米や味殊なる柿を育てる清い土の菊池、澄んで引き締まった空気の菊池、凛々しくして情操美しい菊池氏が昔此処に栄えたも無理はない。

 妻は余の顔色を見て、得々として居る。

 城山を東南に下りて、広い道に出る。豊後街道と聞いて、城山からも見下ろされた竹藪の中の正観寺に往って正観公菊池武光の墓に詣でる。五百年の苔古りた石の玉垣、中に堂々と石をたたんで亀背にのっかったその墓は、其人の気象を象ったような猪井として直く勁い幾竿の真竹をうしろに、丈夫の如く立って居る。湿っぽい藪蔭の土に佇んで居ると、百舌鳥が頻に鳴く。

 

ハ 妻の生家

正観寺から狭い石ころの路を車に揺られて隈府の町へ戻る。城山の嵎を負ふた隈府の町は、すべて南西に向けて傾斜している。狭い狭い石ころの町は、家毎に祭禮の飾り付け賑やかに、在所縁者の女子供達を乗せてきたらしい駄馬の鈴音、色々の見せ物、売り物なども盛んに入り込んで、蜂窩の中の騒ぎを今隈府はしている。

 其騒ぎの中を辛く通って、西北に町を出ぬけ、迫間川を見る。二里の下で菊池川に合う此の川は、隈府の町裏、妻の舊家の背ろを流れて、子供の彼女は一度は年かさの娘に突き落とされ、一度は浅瀬に足踏み滑らし、二度まで危うい命を拾った川である。美しい川を期待した余の目の前に、さもない川が現れた。十四五間ばかりと見ゆる流れに堰が出来て、濁り澱んだ水に汚い塵芥が浮き、藁屑なんど杭に引っかかっている。向こう岸には水車がある。俵を積んだ荷馬車が今仮橋を渡っていく。昔は柴の土橋であったそうな。

『まあ、きたない。彼様な堰なんか無かったンですよ』

出来の悪い息子を見たかの様に彼女はうんざりして居る。

 中町は隈府の目貫という町で、征西将軍が城山に居られた頃は、その辺を御所小路と云ふたそうな、其頃菊池の家来で武張って居た原田何某の遠縁に当たる三兄弟の長は熊さんと勝ち気の弟に呼ばれて呉服屋とくだけ、仲は彌平次と二本挿しそうな名をして、酒造は看板実は白眼に世を見て菊ばかり作って居り、季は形平と云うておとなしく雑貨商をやって居た。皆菊池の菊に縁のある芳屋を屋号にして、都合よく誕生順に列んだ家の位地から、上芳屋、中芳屋、下芳屋と呼ばれた。

 妻其中芳屋に二人の異母兄、一人の同母兄のあとに唯一人の女として生まれたのである。十一で熊本に引出、二十二で父母と異母兄の一人を失い、此の隈府に名跡を嗣いでいた嫡兄も近年山鹿に引き移って、中芳屋は今人手に渡っている。

 中町をそろそろ車で下る。車二台がやうやう行き違う位の狭いだらだら阪町である。妻の昔語りに良く云ふ盆の月夜に綱引きなどやるには成る程よささうな、と思いつつ左見右見して行く。西側の唯有る呉服屋の前に来ると、

『此処が熊伯父の家です』

と後の車から細君が声をかけた。熊伯父は久しい前に没して、孫は帝大の文科を出ている。美しい色の下がった店先を見入れて過ぎる。また少し下って往く。

『此処です』

皆車を下りる。熊伯父のと同じ西側で、通りに向かう上手の方を前裁の植木の梢を見せた黒板塀で囲んで、下手が可愛げな銀行になって居る。つかつかと出納口に往って帽をとり、

『原田の親戚の者ですが、ちょっと裏を拝見願はれますまいか』

と云うと、帳簿を繰っていた若い人が、ちょっと顔を上げて見て、快く諾ふてくれた。

 昔米積んだ馬などが出入りしたと云ふ下の口から入って、裏へぬける。ふり回って見ると、葡萄棚などしつらった平屋の附には人声がして、北の鍵の手に取り付けられた低い二階屋の下には庖廚のもの洗ふ響きがして居る。

『えゝ、あすこが勝手で……住宅はもとの通り、余り変わっちゃ居りません』

裏は長方形にがらんとして、板塀で隣を隔ててある。高い落葉木が塀の内外に突きち、大きな車井近く倉が立って居る。

『あの柿は隣の屋敷になっている……此辺の壁から榎木の突き出た倉があったんです……おや室も無くなっている……物置も。……あ、此処に倉があった。何だか小さくなったようです』

 細君の眼はせはしく見回して、失望が次第に加わってくる。皆過ぎゆいたのである。此処の空き地に若い男女が大勢月夜に盆踊りの稽古したのも、土蔵の中で真っ裸で涼んだ父も、焚落としの火を大火熨に山盛りにして母屋に男が持って来たのも、其火に小さな手をかざして蒸した酒米を練り固めた『酒屋の煎餅』にうまそうに喰ひついた幼女も、現象界からはもうとくに過ぎ往いたのである。

 尚裏へ行く。五月軒に葺く菖蒲など作ってあつたと云ふあたりは、竹垣結われて外になって居る。押し分けて出てみる。竹雑木など茂った中から、大木の榎がぬっと川の附へさし出ている。高い険しい崖の下は迫間川、堰の大分下になって、白い水に石がごろごろして居る。子供の時、川から帰る路に居た蜂が怖さに、友達と藤蔓を伝ったり笹をつかんだり無理に此の崖を上ったことがあります、と細君が語る。

『此処は川風が涼しい処で、父がよく此の木の根に縁台を持って来て、涼んだものです』

と彼女は垣根にちとの菠薐草など作ったあたりをうたてそうに見回すのである。表通りから此の川岸の榎まで小一丁はあろう。

 時移るので井戸端から屋敷内を撮影し、車井の水汲んで、妻の産湯なり母の乳に次いでの飲み代であった其水を一同釣瓶から一口づつ飲み、今の主に礼云うて出る。

 下芳屋は中町もずっと下手の角店である。子供の時は独りで行くが怖い様だった、と細君の云う其家は、同じ町内の半丁とは離れぬ家である。ちょっと立ち寄って挨拶する。主の形平叔父は妻の父の葬式で余も合ったことがあった。今はもう故人になって、ひとり女に養子が来て、子供の幾人か出来て居る。

上芳屋と合名でやはり呉服を業にしているが、きれい好きと評判とった叔父の跡で、子供が多いに家内きちんと片づいて居る。倉住の叔母に初対面の挨拶して、盆栽など並んだ小庭で覚束ない写真を試み、従妹の珍しい来訪をなつかしがって主婦が頻りに引きとむるを兎や角云ふて辞して出る。

 宿に帰ると、すぐ馬車に乗り、夕日を追って山鹿に向ふ。町を離れて迫間川に沿ひ、やがて迫間川を渡って、行く行く隈府は遙かの後になった。しかし天馬の背から振り落とした鞍ヶ岳は東から、丈ら夫の肩筋怒らした八方ヶ岳は北から、此の谷に生まれた女とその夫の一行の馬車を何時までも追って来るのであった。

おわり

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