大智禅師の十二時法語

2000/09/15更新
 菊池武重の寄進により鳳儀山聖護寺を開かれ、二十年間山居された大智禅師は、曹洞宗の開祖である道元禅師の六代目の嫡孫です。その方が参禅指導に当たって示されたのが『十二時法語』です。 十二時とは現在の二十四時間のこと。一日二十四時間、切れ目のない行持、これが禅の修行生活であって、その心得、用心を教えられたのがこの『十二時法語』です。この法語が何時、誰に示されたかは判然としません。が、菊池武重、又は菊池武時に示したという説も有力です。古文で少し読みにくいかもしれませんが、熟読するとすばらしい内容です。


十二時法語

 
大智禅師、示寂阿禅門、菊池肥後守藤原武時入道



 仏祖正伝は、たた坐にて候。坐禅とまをすは、手をくみ、足をもくみ、身をもゆかめす、正しく持たせたまひて、心に何こともおもうことなく、たとひ仏法なりとも、心をかけすして、御座候べし。それを仏にもこえたると、まをし候なり。いはんや生死の流転をや。この身を一たひ諸仏の願海 に捨てさふらふて後には、たた諸仏の御ふるまひのことくに、行せさせたまひ候ひて、二たひわたくしに我が身をかへりみることあるへからす。諸仏の御ふるまひと申すは、寺に居さふらひて後は、かりそめにも、在家に出入りすることを禁し、たたその寺の規式にしたかひて、行ひ候へし。規式と申すは、寺にさためおきたる、一日一夜の御振舞を申し候。一日一夜を、すこしも仏祖のおきてにたかはすして、行しもてゆき候へは、一年二年一生も、たた一日一夜の規式にて候なり。

 一日の始まりはの時なり。鼓鐘をきく時、おきて袈裟をかけ坐しての時の半まで御座候へし。それかあまりに長くおほしめさふらはは、寅の時の半より、を打たせたまひて、卯の時の半まで御座候へし。寅の時は生死なくして、仏祖にて御わたり候。

 卯の時の末に御粥の作法修したまひさふらふ時は、坐禅の御心をはすてさせたまふへし。用心と申すは、六を修し、十利を唱へ、粥まいる外は何の善事なりとも、心におもはす、いわんやあしき心をや。粥の時は身もこころも、たた粥の用心にて、坐禅も餘のつとめも、心にかけられましく候。是を粥の時節をあきらめ、かゆのこころさとると申し候なり。このとき仏祖のこころ、のこるところなく、さとることにて候。

 辰の時いまた世間もすこし暗くは、卯の時かと覚ゆるやうに、御つとめ候へし。諷経の用心と申すは。坐禅のことも、少しも御心にかけす、たた手に経をもちよみて、外の用心さふらはす。是を諷経をさとりあきらむると申すにて候。このとき生死の業つきて、仏祖の位にのほる時節なり。
 御つとめの後すこし休ませたまひ候へし。休む時の用心は、世間のいたつらことをおもはす、いはす候なり。

 の時の半ばはよりの時の半ばまて、一時は香をもり、鐘をならして、坐禅めさるへし。坐禅の用心は、仏祖をも、世間の善悪をもなけすてて、こころにおもふことなく、なすことなきを坐禅とは申候なり。また是を三昧王三昧とも申候。わつかに坐禅すればやがて仏の頂をこゆる第一の行なり。生死の業ツキテ、仏祖の位にのほるなり。

 坐禅過ぎてそののちに、御斎の法、修せさせたまひ候まては、やすみ時にて候なり。やすみ時、みな規式の候そ。やすみ時の用心は、年ひとつも我よりまさりたる人には、仏にもおとらすうやまふへし。病者ならん人をみては、父母のことく是を見るへし。また声高し、世間の無益のことをかたる事なかれ。たた生死無常の出息入息をまたぬことをこころにわするる事なく、その過ぎてややもすれば、僧堂の牀(ゆか)に居て、坐するもまたいつる時も、あゆむ時も、しつかに人にましはりても、仏法ならてはふるまはぬを、ひまの用心と申候なり。の時のはしめに、御斎おこなはせたまひ候へし。斎の用心は、粥の用心にたかふへからす。この時生死の業つきて、仏祖の位なり。

 の時よりの時の半はまでは、ひまにて候なり。その用心さきに申すことく、生死事大無常迅速を御心にかけて、何事をするにつけても、いたつらに日をくらすことをなけき、おはしめさるへし。これ未の時の用心と申候なり。生死の業なく、仏祖の位に候なり。申の時の半はよりの時の半はまでは、坐禅にて候なり。用心はさきの如し。この時、生死の業つき、身心仏祖にて候なり。

 酉の時の半はより、あるひは放参の経をも略し、の時の初まて、たたひまにて候なり。此日のはやく過ぎぬる事ををしみ、無常の時をまたぬことを、観する用心の外は、何事もおほしめされましく候。この時、心身共に仏祖にて候。戌の時一時は坐禅なり。用心のことさきのことし。この時生死の業つき心身仏祖にて候。

 の時ひまなり。ひまとゆるし候へとも、そのこころにまかせて、坐すべき人は坐し、臥すべし人は臥し、また寮へかへりて仏法の物語りして、心やすくなくさませたまふなとの事、もとも本意にて候。また坐させたまふことは、申すにおよはす、しつかにすへき御事にて候へし。また寮にかへりてむしままひ候にも、みな仏のふしたたまふ御姿にて候へし。坐禅諷経にすこしもおとりとはおほしめされましく候。仏の臥させたまふ御姿とまをすは、右の脇を下にして、ころもの帯をとかすして、寝るより外に、仏法のことなりとも、こころにかけす。いはんや生死のこころをや。この時、生死の業つきて、身心たた仏祖にて候。

 の時は、釈尊のをしへのことく、子にふし におくると。まことにふすへき時にて候。坐させたまひ候ことも、くるしかるましく候。まことに草菴夜閑にして耿耿たる天の燈の影に粛粛なるとき、御衾ひきかつきて、坐させたまひ候らわんは、世にあらまほしき御事にて候。ふさせたまひ候ときも、仏にたかはむことにて候なり。是を子の時をいたつらにおくらむとは申候なり。

 の時も用心おなしく、身心ともに仏にて候なり。これを丑の時をいたつらにおくらむと申候。さきのことく・坐するも臥するも、少しもたかはぬ仏にて候。これ丑の時の用心正しくて、生死の業つきて、身心仏なりと申候なり。また、おきふし、たたさとりとも申候。坐禅のつとめはかり、深切まことありて、ひまの時はいたつらなりと、おほしめし候は、きはめたる用心のたかふことにて候

 寅の時よりはしめ、丑の時の終まて、一日一夜を過くるに、仏祖の行持のことく、たかふ時なく候。一日一夜を仏祖の行持のことくたかはすしもてゆき候へは、二十年三十年も、およひ一生も、この一日一夜にて候なり。されとても我身をわすれて、一度三宝の願海に入りて後は、仏祖およひ善知識のをしへにたかはねは、身も心もともに、仏にて候。生死の業立地につき、父母の恩、一時に報し候なり。仏は多生曠劫に修行すると、とかせたまふ。たた一日一夜の行持にて候なり。たたし寺を出てすして、在家に一日も居らぬを申候なり。しかあれは行持は仏祖の王三昧なり。今生に仏ならんとまことにおほしめされそふらはは、たた行持にて候なり。(十二時法語終)

→鳳儀山聖護寺@



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