御松囃子御能保存会 N.H
平成三年十月十三日、狂言「しびり」で初めて松囃子能場に立った。シテ(主役)の有作君に助けられながら何とか主人の役をやり終えたとき、緊張や不安や興奮でほてっていた体に吹きぬけた秋風のなんと心地よかったことだろう。暖かい幸福感が体の隅々に拡がっていった。
その日の朝、僕らは能場回りの清掃、舞台磨き、客席やテントの設営のために集まっていた。作業が一段落したあと、初舞台を前にして落ちつかない僕は、独りで舞台に続く廊下(橋懸かり)を渡って三間四方の舞台の中央に正座した。顔を上げて目に入ってきたものは、眼前にどっかりと鎮座した老大木であった。その幹は捻れ、節くれだっていたが、木漏れ日をうけて輝いていた。そして、その中心は寸分違わず舞台中央の真正面にあるのだった。「松囃子能場はこの一本の木のために建てられている。」「自分がこれからやる舞台はこの木の魂に向けて行われるものだ。」と感じたとき僕の心は落ちついた。
菊池の「御松囃子御能」は足利義教の時代に流行した正月の祝賀芸能「松囃子」が、日本で唯一当時の形を今にとどめている貴重な文化財だが、二百年前にこの老木を神と見立てて能場を建立した町衆の心意気とは一体どのようなものだったのだろうか。隈府の商人が残した江戸時代の日記『嶋屋日記』には、「寛政八年(1796)六月、上町能舞臺建、別當不怪大世話之事、漸々七月十三日・四日迄ニ成就ニ相成候事。」とあるだけだが、現代の経済的効果とか話題作りといったものとは別な、精神的に純粋な願いや祈りがこの能場建立には込められている。誠に、今年、松囃子能場建立200年祭をする意味もこれら善き先人達を思い起こす事にある。
さて、御松囃子御能保存会の構成員の年齢の幅は広く、上は既に九十才の坂を越えられた西岡一人先輩から、まだ会員ではないけれども既に狂言の手習いをはじめている八・九才のジュニア達までといった具合だ。五十才に手が届こうという僕らも、有り難いことに若者などと呼ばれたりする。七十代の先輩に飲み屋に誘われ一緒に大騒ぎをすることもある。
この様な環境の中にいると時間は相対化され、江戸時代の番組表に出ている十吉さんや伊兵衛さんや栄吉さんらが断然他人とは思えなくなる。そして、過去から未来に続く長い時間の中を、たまたま現在、僕たちがバトンを持って走っているのだ、という実感を得ることができる。過去から未来に連なる一帯感。これが伝統芸能をやる醍醐味のひとつだと感じる。
二百年前、まだ木の香の残る真新しい舞台の上では晴れ晴れしい顔をした役者達が舞い、多くの観客がそれを楽しんでいたことだろう。彼らはどんな顔をしてどんな姿恰好だったのか。
今年十月十三日、能場建立二百年を祝って「能と狂言の会」が催される。そこに集まるたくさんの顔を、時を超えて、老大木は眺めている。