菊池風土記の中の松囃子

00/03/15

菊池風土記』は菊池の学者、渋江公正が寛政六年(1794)に編著した当時の菊池地誌です。郷土の風土や文化を紹介するために、幾多の文献をもとに、旧跡口碑を調査して残した記録です。旧跡、山河、神社、寺院、城墟、等に分けられた中で、「一巻 旧跡」の中に、三.将軍木、三九・松囃子能場という項を設けて紹介されています。
郷土史家、今坂正哉氏による『現代語訳−菊池風土記』より引用しました。


四.将軍木

隈府上町の上端、はじまりの地点にあり、大椋である。 これは、征西将軍の宮様の思いを込めて、植樹されたものが成長して、このように繁茂したものであろうといい伝えられている。この木の本枝下で横になって休息したり、眠りについた人は愚か者で、枝下で寝たりすることは出来ない。

この木の芯は昔は空洞で、子供がその穴を通っても頭がつかえない程の大きさであったのが、霊感院様〔細川重賢公〕の御代に、自然と肉付き空洞はいつの間にか満ちてきて、木の勢いが盛んになった。本当に故ある木で、言葉にするのも恐れ多い御神霊が、公の御仁政に感じられたものであろう。

三九 松囃子能場

隈府上町の最初の地点にあり、正観寺・高野瀬村が交差するところである。

この松囃子は菊池家代々のまつりごととして天下国家祈祷のために、城内で毎年正月に行われていたという。何時の頃にか出陣のため正月の興行を中止され、凱旋が終わった後七月十五日に執行されて以来、嘉例となって、毎年七月十五日に勤めることになったという。

菊池家が断絶した後もこの行事は隈府の神事として残され、そのため神殿を表現して御假屋を立てて神酒を捧げ、毎年怠りなく勤めている。以前の能組は不明であるが、寛文七年(1667)から宝永二年(1705)までの、能または囃子を勤める番組を記入した書類が残っていた、その後は役者不足で能は行われず、開口のみを勤めていた。以前に天候が悪て中止したことが三度あったが、三度とも火災が起こり隈府が消滅し、また宝暦五年(1755)の台風にも不思議なことが起こった事などを考えてみると神事であることの証である。

享保の頃までは口伝によって古事を知っている人も多かったが、それから六十余年も経っているので、そのことを知っている人も少なくなった。それでは申し訳が立たないので、ここに改めて菊池家の遺跡を記述する

菊池家は、中ノ関白藤原道隆公を祖と仰ぎ、代々の子孫繁栄して家運長久を祈り、国家の安全を祝う申楽の舞台を、将軍木の下に新しく設けて正月に興行された、その後、慈悲院義政公の時、うたい能が始まり天下に流行したのは、菊池家持朝・為邦公の頃に当たり、この時より申楽から能に替わった。

しかし菊池公の出陣に支障があって正月に興行できない場合もあり、御帰陣の後、七月十五日に興行されたが、これが恒例となって、菊池家代々の神事が行われるようになった。

今に伝わる開口の一番は他では類のないことで、目出度い言葉を綴ったものである。舞い人は七日以前より食事を別にし、物忌み深くしてこれを勤める。もし不浄にして勤めれば必ず凶事がある。それで山の作り物の屋台に征西将軍と菊池公を祭り、所の繁栄を祈る心を第一に勤め、町の神事となった。これは他に類のないことであると共に、菊池公の余慶は深く人民に残っていることを思わなければならない。

今でも假御殿に台を備えて、征西将軍と菊池公に御神酒を献上し、その崇庄屋が仮殿の内の定座より開口するのだが、その発語に天下太平・国土安穏・武運長久・息災延命とあるのは祈祷神事の心を述べるものである。

申楽のはじまり

『翰林葫盧集』にいう申楽は秦の河勝(聖徳太子に用いられた帰代人)に始まったと思われる。
推古天皇の朝厩戸の王子は、天神地祗を祭り安国の政治を行うと共に、六十三番の曲を作って河勝に命じ、紫宸殿の前で優れた演技を披露させた。太子は、この神楽の字を分けて申楽と名付けられた。説文に「申は神なり」とある。大歳の神が申の方にあるときは猿をもってこれにあてるので猿楽という。神楽を和らげて面白く戯れ成すを俳優という。
『宇治拾遺』には、「内侍所で御神楽の夜、執事の家綱を召して、今宵は珍しい猿楽をいたさせ」とある。

しかし初期の申楽は舞方にも定めがなく素朴なものであった。後世になって風致の情がひらけ、特に東山殿の時代には文雅の道が大いに進み、申楽を潤色して装束や作り物も格式高く、謡も特別に出来たようである。申楽から起こった能であるから、今では能を申楽という。

菊池代々の神事の松囃子における伝来の言葉を次ぎに記す。

天下太平・国土安穏・武運長久・息災延命、弓は袋に入れ、刀は箱に納め、我が朝にては延喜の帝の御代ともいゝつへし、唐土にては堯舜御代とも云つえし、ハァゝ、目出度い御代にて御座候、毎年御嘉例の松をはやし申そふ

松やにやに、小松やにやに、松がうへにこそとみいやまします、しら毛もはらり、真白毛もはらり、岩根がうえに亀遊ふだり、八百神(やよふかり)もそふよの、やよふかりもそふよの

西の海もろこし舟のみつぎ物、かそえつくさし君がよはいは久方の、万方雲におさまりて、寒暑時をたがへず、四海波しづかにして、風雨枝をならさず、ヤ 松によれば千年の鶴が岡のやま、ヤァエィヤァ

古文書

一.脇能は「老松」とすることが恒例の決まりである。これは将軍毛の他は演じることは出来ないと聞いている。

宝暦の頃に御尋ねがあり、おしらせします。一通の写し

一.御松囃子能は菊池の城が落城して以来、隈府町・正観寺村・高野瀬村のあいだの「御茶屋前」という所を能場に定めてここで毎年実施し、以前から御松囃子を勤めた参りました。その有様を御報告致します。
ここには昔から用いられたどだい石が今もあり、これを用いて毎年刈りの舞台を作って実施してきました。昔の舞台は火災でなくなりました。

一.御能場の正面に征西将軍と菊池公の御座敷を設け、昔から「将軍木」と呼んできた椋の神木があり将軍の御座敷とその御神木へ蓬莱三方と御酒を両方に樽一ツづつお供えして来ました。
以前は、御町奉行の方々が松囃子を御覧になるときは、左の菊池公の御座敷から御覧になられましたが、その後は惣庄屋の方々も来られるようになったので、右の桟敷からも御覧になるようになりました。
御松囃子の当日は、以前の町奉行衆以来、代々の御惣庄屋集を旧菊池家の名代様に見立てて尊崇して参りました。その訳は菊池公以後に残された遺臣の代表と云うことで、当然の措置と思います。
正観寺村・亘村・藤田村・下河原村・今村・片角村・戸豊水村・両迫間村の庄屋などが参着し、また、御座敷を組み立てる用材の竹木や人夫については、古来より正観寺に拝領している竹山から切り出し、松囃子能場のお世話一切は、正観寺村から行っています。

一.通し物の行列や物真似は、御凱旋を祝い奉ることで、その行列は今でも雲上の城跡に向かって聖堂道から北南院の馬場を通り、町中に入り込む道順をとっています。
七月一日から十五日まで、毎夜興業や物真似をする習慣は、旧例の通り勤めています。右の様にいたし、神事の御松囃子などと前後して、町中特別に何事も慎み申している次第であります。

宝暦七年七月

隈府町庄屋 次左右衛門

一.右の通りに御報告致しましたところ、旧例のように相違なく勤めるよう仰せ付けになりました。

一.松囃子の言葉は、皇室か将軍家の他には使用されないものと伝え聞いています。いま当初にそれが残っていることで、征西将軍がこの地に居られたことは明かであるので、菊池の人民である以上は、怠りなく勤めなければならない。

一.通し物は一夜のうちに上町がまず通り、次に下町が出ていたが、その節に時々言い合い事等が起こり神事の慎みに叶わないので、安永二年(1773)七月から上下町で一晩ごと交換することとし、一ト町で興行することを定めた。それ以後は上下町ともに仲良く興行している。この場合、今年の七月一日に上町が先発したら次年は下町が前の日に出ることとし、これは河原惣庄屋三池長左右衛門の代に定まった。
(三池長左右衛門は後に三池安水という)

追 補

一.寛政八年(1796)に隈府中の願いによって能舞台の建築を許可される。

  その時の御役人・世話人は次の通り

   御郡代  宮本伝右衛門

   惣庄屋  阿部太郎左衛門

   町別当  中島伊次郎

   町庄屋  次右衛門

   大工頭領  西寺村義八

   世話人頭取 中島伊次郎

  材木は、宗伝次・中島伊次郎・武田屋貞次郎の三人の合同で取りそろえて寄進し、出し合わせの分で不足する資材は町中から持ち寄り、五月から取りかかり七月十二日に完成した。




目次へ戻る  What's Newへ  表紙へ  風の掲示板へ

agari@mx7.tiki.ne.jp