横井出端

2000/08/27

 菊池川の木庭堰で取水する築地井手は加藤清正が掘ったものです。以前はホタルも見られた築地井手は菊池グランドホテルの手前で、分水し、滝のように下った水は菊池女子高の裏を通って市役所の横を通る新堀井手になります。一方主流は分水の直後に暗渠となって正観寺、栄町の通りの下を流れます。近年、旧片瀬歯科の曲がり角から横井出端の部分の蓋が取り払われ、流れが復原されました。


分水点

分水 横井出端
 分水点です。左の流れは迎町から北原へ、右は横井出端にそって流れた後、突き当たりを左に曲がって中央通りから、切明へ。其の先はもちろんどこかの水田です(どこだろう?)。右写真−復原された、横井出端の流れ。かつては、手前のカーブに広い洗い場がありました。アヒルも泳いでいました。情けなくも一ヶ月でやめた習字教室の帰りに、上流の斉藤産婦人科の前の洗い場で筆を洗っていました。生活に井手がとけ込んでいました。もちろん、幾多の水系伝染病も媒介したはずですが。また、昭和30年代前半までは、箱眼鏡で底を覗きながら強力な磁石で地金などを回収する姿も見られました。世の中に物が溢れて捨て場に汲々としているのに、これでもかこれでもかと後から後から物が押し寄せてくる今の姿など夢にも考えられなかった頃の話です。 2000/05/21

水門と路地

水門 分流と路地
 以前は、水門がなく、増水すると決まってカトリック教会(聖母幼稚園)の下の突き当たりで溢れていました。この水門が出来てからは、増水に応じて水門が自動的に閉まるので、流れる水は少なくなります。右写真。井手とそれにそった路地です。ここでは、むかし、ゴムで回るスクリューを付けた木の船を競争させて遊んびました。時には、子供自身も流されました。泥鰌や蟹はもちろんのこと、時には鰻もとれました。しかし嫌な蛭もいました。それはみんな昭和三十年代の話。まだ三方張りになる十数年前、隣の理髪業のNさんが「ここは絶対に鰻が捕れるはず」と、「鰻てぼ」(竹で作ったかご状の鰻捕獲装置。中に、シュロの葉や餌の山ミミズを入れて、川底に沈める。餌を求めて入った鰻が出られないように「戻り」が付いている)をしばらく漬けていたが、もちろんのこと一匹もかかりませんでした。 2000/05/21

菊池井手

石碑
 流れが復原されたら、暗渠の時にはなかった石碑まで元の位置に建てられました。どこにしまってあったのでしょう。「分水記念 明治四十一年九月 立会人・・・・寄付者・・・・」と書いてあります。立会人というところが水利権の関わる分水の重さを示しているように感じます。 2000/05/21


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