永山橋(1)−菊池の橋@−

2000/06/01

 菊池川と迫間川の二つの川に囲まれている菊池には多くの橋があります。「風景」コーナーのなかのひとつのシリーズとして「菊池の橋」を掲載していきます。
 シリーズ第1回として皇居の二重橋の建設にも関わった肥後の石工、橋本甚五郎が架けた「永山の石橋」を取り上げます。
 菊池渓谷の手前3km、立門を過ぎて間もないあたりに永山地区があります。観光客の往来で賑やかな国道の下に 今は忘れられたかのように、かつての交通の要所「永山橋」がありました。美しい棚田、きれいに刈り込まれた畦などと共に、「永山橋」は今も地元の住民の人たちによって、大切に守られているように感じられました。

 平成6年3月16日に県指定重要文化財(建造物)に指定されています。長さ61m・幅4.6mとのことです。(菊池市役所のTさんからの情報です。02/07/10)  


永山橋

永山橋

 案内板には次のように書いてあります。

「 永山橋(菊池市文化財指定。昭和45年2月13日)  旧永山橋は現永山橋より130M下流に文政6年(1823年)に架けられたが、文政12年5月の洪水で流失している。現永山橋は、明治11年完成している。架橋は古老の武藤逸美氏は「私の祖父甚平に妻(祖母)がお嫁にきたのが明治9年であった。その年が着工の年で翌々年明治11年の春、約二カ年の歳月を費やして現在の橋を見るに至った」と語る。工事中一度枠組みに失敗して再度やり直したと伝えられている。当時、永山橋は熊本、合志、菊池と小国、豊後との交通上の要路で、この西方4kmの地点にある日田往還よりの立門橋と共に肥後と豊後の公益の要路上の重要な橋としての意義は大きなものがあった。
 石工は肥後八代種山手永の橋本甚五郎である。使用石材は近くの上崩迫より切りだして多くの石工、大工、人夫によって構築されている。明治4年に東京に召された橋本甚五郎は、皇居の二重橋をはじめ、江戸橋、万世橋、浅草橋等の眼鏡橋を架けて当時の東京市民の生活の便を図っている。内務省の土木測量士の辞令をもらい、その辞令によると、明治七年の日付で「月給弐拾円也」となっている。永山橋は欄干の形状に特徴があるといわれる。
 規模 長さ 24.4M  高さ 17.0M  幅 4.7M  輪石 45枚

環境庁・熊本県」

2000/06/01  

手前の道と欄干

橋の手前 欄干
 アーチが始まる部分で橋の幅員が狭くなっています。右の写真、欄干は柱の部分と手すりの部分が共に丸っこく細工してあります。後ろの緑と共に眺めると、石庭かと錯覚しそうです。2000/05/28  

橋の向こう側

下から2

 橋の向こう側が、菊池、合志、熊本方面です。欄干の途中で狭くなっているところから先がアーチの部分、つまり川の上です。向こう側も同様にアーチの先の部分の幅員が広くなっています。幾つもの山を越えて永山橋に到着した旅人が、ここで一息入れて、豊後への険しい分水嶺「兵藤峠」へと向かったのでしょうか。2000/05/28
→永山橋(2)


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