隈部忠直観音堂−路傍の神仏@−

00/03/11

 隈部忠直観音堂は迫間から遊蛇口へ向かう道から迫間川に向かって小径を下った先にある小さな観音堂です。隈部忠直の墓を祭ってあります。昔は「ただのぶさん」と呼ばれて子ども達の遊び場所になっていたそうです。高野瀬方面からこのお堂に向かって橋がかかっており、ローソクや線香のほかに駄菓子なども売られていたといいます。
 平成3年の台風19号で屋根などが大破したものを、当時菊池市の文化財保護委員だった木原昭三先生などが発起人となって寄付を募り、前よりも立派に再建されました。隈部忠直は菊池の文教史上たいへん重要な人です。以下、当地にある案内板より引用します。

隈部忠直公の墓

 隈部忠直公は、菊池氏19代持朝・20代為邦・21代重朝公の三代に仕えた菊池家の重臣で、文武両道に勝れた人でした。
 忠直公の先祖宇野親治は、保元の乱(1156)で捕われ菊池氏が預かりましたが、7代目持直の代、菊池十代武房公から隈部の姓を賜り、以来、菊池・赤星・城の各氏と姻戚関係を結び、忠直公は七代目になります。
 重朝公が孔子堂を立てるときは忠直公に相談し、文明4年(1472)に完成しましたが、同8年京都南禅寺の名僧桂庵禅師が隈府に来訪したとき、門弟となってさらに勉学に磨きをかけました。藤崎八幡宮に奉納された千句連歌のなかにも忠直公の句があります。
 忠直公は孝心が厚く、西迫間字日向に、若くして亡くなった母を弔うため自ら馬頭観音像を刻み、これを本尊とした光九庵を建てました。明応3年(1494)69歳没。

平成元年十二月 菊池市教育委員会

隈部観音堂遠景春の隈部観音

隈部観音堂遠景(00/02/21)。右は春爛漫の隈部観音遠景(00/04/13)

隈部忠直公の墓隈部忠直公の墓(99/10/05)

観音堂正面観音堂正面(99/10/05)

ガラスの向こうに墓がある祭壇の向こうがガラスで、先に墓が見える。(99/10/05)

彼岸花裏の土手には彼岸花。(99/10/05)

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