木庭城址−遠足で行った場所@−
00/03/22
木庭城址は隈府の東側に位置する、中世の山城の跡です。手頃な距離で見晴らしも良いことから遠足の定番コースでした。3月12日の雨上がりに歩きましたが。早春の木庭城址は、たかだか2時間弱の間に幾つもの感動を与えてくれました。
木庭橋へ
春風が雨上がりの道を乾かしてスタート。
栄町、正観寺を抜け菊池女子高の前を通り
左に曲がって5分も歩くと、田んぼの中に杉の巨木
が菊池武重の墓を守るように取り囲んでいます。
その向こう側に、木庭城址の高台
が見えてきました。頭の中のイメージでは、
高台に数本の桜の林が突出していて遠目
にもすぐにそことわかるのが木庭城址なの
ですが、象徴ともいうべき山頂の林は全く
消えていました。猛威を振るった平成11年の台風18号が
ここにも無惨な傷跡をつけたのでしょうか。00/03/12
左側に目を転じると遠くに鉄橋が見ます。木庭橋と下木庭の集落です。
右へ緩いカーブを描きながら木庭橋をわたります。ここは白ハヤや鮎が
よくつれます。集落を抜けてすぐに右に分かれる小さな野道が
木庭城址への上り道です。
この分岐点の左側の岩壁の中腹が掘られて
七体の地蔵さんを祭ってありました。だれが何を祈って作られたもの
かはわかりませんが、きれいに掃除が行き届き、榊も備えられていて
今も信心が生きていることはよくわかりました。00/03/12
地蔵さん遠景
地蔵さん近写
知られぬ梅の匂ふや
ここから野道です。小川の橋を渡ると、右手の畑からはヒバリ、向かいの林からは鴬のホーホケキョ
をはじめとしてチャッチャッという「笹鳴き」もしきりに聞こえます。ケケケケケッキョケッキョと
いう「鴬の谷わたり」の声らしいものも聞こえてきました。00/03/12
道は谷に入り周りの林に囲まれて薄暗くなりました。左に急なカーブを曲がると
見事に梅が咲いていました。
「知られぬ梅の匂ふや、知られぬ梅の匂ふや、この藪里の春風・・・」
「寝音曲」という狂言の中で謡われる「大原木」という狂言小謡を思いだしました。なんだか、贅沢な気分です。
この先の林の中で突然バタバタバタバタバタと
大きな雄のキジが飛び立って驚かされました。左の崖からは清水がにじみ出るように流れていましたが、観察すると、岩盤が土壌の下にあり、ハハーッなるほどこんな所から水が湧くものだと納得しました。00/03/12
水がにじみ出る地層の写真
楽園
右にカーブながら林を抜けると、山頂の下の斜面に出ました。ここで足を止め、
息を潜めて耳をすますと、鴬の他には名前がわからないがさまざまな鳥の声が谷間に響きました。それは、息を呑むような時間で、丁度この時期にこの場所を訪れた幸運を感謝しました。
近くの梅の木にはメジロか鴬かが何匹も群を為して蜜をすっていました。
野鳥の会の人なら喜ぶだろうな。まさに野鳥の楽園です。00/03/12
頂上
山頂付近は去年の台風18号で傷ついた木がまだ残っていました。山頂には祠がありましたが、文字は読みとれず、何を祭ってあるのかはわかりません。
また、次のように書かれた教育委員会の説明の看板がありました。
城林城跡(止林城、木庭城)
「城武顕が築城し代々城氏の居城となっていたが 南北朝期には 菊池一族の智将として勇名をはせ、後の文教興隆期には城氏は、共に菊池万句に名を連ねている。
周辺一帯に「古城」の字名を残すとともに中心部は「城床」と呼ばれている。
城跡に関連した遺構としては、東側鞍部を断ち切る堀切を始め、「城床」を北から西にかけて取り囲む曲輪的な地形があげられ、古老の話によると古井戸も存在していたという。
一方、麓の木庭の集落には「陣内」「外園」をはじめとして、城跡との境には「からめて」の呼び名も残っているが、特に「陣内」には城氏の館跡と伝わる屋敷がある。
ここ木庭地区にも大多数の家が城姓を名乗っており、四月一日〜三日の間この地で城祭りが行われている。」
昭和六十二年三月
菊池市教育委員会00/03/12
山頂から城山方面を望むと菊池市総合体育館が見えます。ここでは平成11年に国民体育祭の剣道が行われました。
こんな風に、木庭城は菊池氏の本拠城山の「隈部山城」を守っていたのでしょうか。00/03/12
山頂から菊池平野と隈府を望みます。この向こうに夕日が沈みます。00/03/12
目次へ戻る
What's Newへ
表紙へ
風の掲示板へ