玉祥寺−水浴をした場所@−

2000/04/06更新

 菊池市に初めてプールができたのは昭和36年の夏でした。隈府小学校のグランドの西側に今もある25mと子供用の円形のプールがそれです。プールをつくるために在校児童が一日一円貯金という運動(?)をしたので、鮮明に覚えています。
 それまでは、夏休みの40日間、雨の降らない日は毎日川に泳ぎに行きました。浮き袋代わりに自動車のチューブをたすきがけに掛けて炎天下の道をを歩いて通いました。1時から4時半まで、泳いだり、石の上に腹這いになって甲羅干しをしたり、魚を追いかけたり、泥団子を作ったり・・・。夏の間、水浴び場は喧噪に包まれていました。


2000年2月27日

玉祥寺橋 玉祥寺橋の下
 左の写真を見ると橋の欄干や、構造材の下から次々に子ども達が飛び込む姿が浮かびます。歓声、水に飛び込む音、水しぶき、憑かれたように何回も何回も飛び込む。唇をふるわせ、目を充血させ、皮膚は日焼けで黒光りがしています。それは現代の子供ではなく、、痩せて、貧しく、しかし、将来への不安など毫もなく天真爛漫に遊んでいた、ちょっと昔の子ども達です。 00/02/27

 このページを見てくれた同級生で神奈川在住のYさんから次のようなメールを頂きました。

「 君が言っているように、何も考えずに天真爛漫に過ごした少年時代は 今、振り返ってみると人生の至福の時間でした。特に夏休みの水遊びは 今でも鮮明に覚えています。僕らは上町(かんまち)だったので、もちろん ホームグランドは玉祥寺でした。夏休みに入ると、すぐに水泳場調査と言 うのがあって、町内の下級生が見ている前で、6年生の代表(水泳の巧い 子、又はガキ大将その他)が川の中に入り、両手を垂直に上げ、そのまま ずぶずぶと自分の足が川底に着くまで沈むのです。なかなか上がって来 ない上級生を、手に汗を握りながら、あーあそこは大分深いんだな、など どちょっと怖い気持ちになる訳です。そして、自分も6年生になったら、絶 対に「水泳場調査の代表」になってやると、心に誓うのです。
 ちなみに、僕らは「万田」の事は「万田、万田、糞万田」と言っていました。 あしからず。」2000/04/02

   Yさんのメールに今度は大阪のMさんから次のようなメールを頂きました。

「ところで、糞万田と言ったY君って誰でしょう。 笑ってしまいました。
川は、私にとってもいちばん思い出多いところです。 男の子が木から飛び込むのが羨ましくて、男の子だったら良かったのにと思ったものです。 上級生が木の枝にぶらさがって飛び込む様を、憧憬の念を持って 眺めていました。
 私は、監視員が帰るまで隠れていて、夕方遅くまで泳いでいました。 ひんやりとした水面の感触は、今でも覚えています。 夏休み前の遊泳禁止時期に泳いで、罰として校庭10周したこともありますし、台風の翌日増水した川で泳いで、亀岩にたどりつけず、随分流され、怖い思いをしたこともあります。 とにかくお転婆で、夏の間は真っ黒な女の子でした。 いつか帰ったとき、万田を覗いてみましたが、意外と狭かったんだなという感じでした。 でも、あの青々とした淵を、よく泳いでいたものですね。 昔は親も子もたくましい!」2000/04/05

 そうです!万田には「亀岩」という水面すれすれの大石がありました。やっと泳げるようになった低学年の子どもが、こちらの岸から、背の立たない数メートルを必死で泳ぎ切り、ほとんどおぼれそうになりながら、最後の力を振り絞って取りすがる岩。それが「亀岩」でした。
 そこは「向こう岸」とよばれる世界です。自由に「向こう岸」に行けるようになって、初めて一人前と認められたものです。
 しかし、未だそこへ泳ぎ着けないものにとって、わずか数メートル先の「向こう岸」が、なんと遠く、光にあふれ、うらやましい限りの別天地に思われたことでしょう。実際、「向こう岸」に渡ることができてはじめて、きんきん団子(土団子)の為の粘土質の土を手に入れることや、甲羅干しや、玉祥寺への遠征が可能だったのです。こちらの岸では、浅瀬でメダカを追うぐらいが関の山でした。「早く大きくなって向こう岸に渡りたい!」それはチビの私の切実な願いでした。2000/04/06

1999年9月18日

玉祥寺渕 玉祥寺から万田方面
 上の冬の写真にくらべて、水の緑が深いです。「彦市ばなし」で彦市がカッパを釣ったのはこんな淵でしょう。僕のホーム(地区によって泳ぎ場が定められていました)は万田だったから、たまに石飛をして玉祥寺に遠征しても、知らない淵で泳ぐのは気味が悪いものでした。今思い出すと、ホームの泳ぎ場の水中の地形はほとんど頭に入っていました、というより、からだに記憶されていました。頭から飛び込むときにはちゃんと水中に石のあるところは避けていましたし、背の立たないところで一休みする場所などすべてわかっていました。
 右は万田方面を見たところ。日記にも書きましたが、当時の僕にとって右手奥の崖っぷちの別荘風建物が謎でした。モダンな形の窓があって、なにやら「西洋」という雰囲気でした。あそこは万田の下流の「下ン川」とよばれた淵の崖の上です。99/09/18
 


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