情熱の詩人 島田馨也
 2010年5月8日に隈府中学校昭和40年卒業生の還暦同窓会が催され隈府中学校校歌を斉唱しました。後で、この歌の作詞が「裏町人生」などの作詞で有名な島田馨也氏であることが話題となりました。氏はこのほかにも「隈府小学校校歌」「菊池賛歌」なども手がけられています。
 この著名な作曲家がなぜ菊池で作詞を?と、掲示板で話題になったところ。千葉在住のNさんから、格好の資料が送られてきました。Nさんの父上で、菊池の代表的な菓子屋のひとつ「丸宝」の創業者、野口貞氏(故人)が残された、島田馨也氏との交流の貴重な記録です  2010/07/16

情熱の詩人 故島田馨也氏(野口貞氏「自伝」より)

 

 島田馨也氏は、明治四十二年六月三十日熊本市生まれ、幼児の頃父と死別、母と共に放浪生活、世の辛酸をなめながらも、文学を志して専念した。定まる故郷とてもなく、八代、人吉、山鹿、菊池へと住家を移住し転々として流浪の生活は続き、大正八年の春菊池郡隈府町に居住されたのが思いでも深き、人生第二の故郷となった。
 隈府は山紫水明の田舎町であり、菊池神社、城山の月見殿、鞍岳や八方ヶ岳の秀峰、菊池川の清流や隈府町もしっとりとした雰囲気の中に彼等を温かく迎え入れた。彼の夢も育ち、親友も出来楽しさが生まれた。
 昭和二年十九歳の頃、彼は意を決し東京板橋区柏木の西条八十先生の門をたたき、押しかけ見習い書生として苦労の生活が続く中にも勉学の努力を怠らなかった。そして詩人としての前途が彼を待っている。
 昭和六年の頃には、コロンビア・ビクター等のレコード界へデビューして次々にヒット作を出し意気揚々として隈府町に帰郷したこともあった。
 昭和八年二十五歳の東京神田の裏町に住んでいた頃、主婦の友社が募集した「地上の星座」の主題歌に応募し、一等当選の栄冠を勝ち取り、賞金三百円を手にし、夢のような嬉しさに沸き立ち、仲間達と地下食堂でジョッキのビールで乾杯、一夜を飲み明かしてかねて喰えない、カツドン、テンドンの腹一杯のおかわりに全員が腹をこわしてダウンしたとは、傑作中の中にも誠に目出度き話の祝賀会であったという。
 昭和十一年前後の頃、時局は非常の態勢へ転換して、世相は国民歌謡が愛唱されるようになり、そして流行歌が町に流れた。私はその頃の時流に添って青年団演劇部を組織して約三十余名の青年団員と共に演劇の練習を続け始めた。そして金色夜叉、父帰る、晩鐘等の新劇の出し物を隈府町の劇場桜座で上演した。これが大変な人気で大衆にも受け、はいりが良く、主演座長としての田舎スターに一躍のし上がり、楽屋までファンが詰めかけサイン責めにあったことは嬉しい青年時代の傑作の一コマであった。入場料の剰余金は国防献金にも当てた。
 又、鈴木篤子女史舞踏団と、歌と踊りの会に帰郷中の島田馨也氏と共に、自作詩歌朗詠にて学校訪問、慰問旅行にも活躍し、苦労人間芯の心の合った友人として、ああたが、わしらがの交際となった。
 詩人としての、それからの苦労の生活の中、人生の荒野に歌の花を咲かせ、砂漠にオアシスを湧かせ怒濤を乗り切る船となり、幾多の傑作集の中の人生の航海、泣き笑いの人生、夜霧のブルース等、大衆のポエームを謳いつづけた。私の人生は演歌なりと、人生詩人の波瀾万丈の生活の中に彼のヒット中の大ヒット「裏町人生」は、街から街へ流行し唄い続けられた。

              裏町人生の唄  島田馨也作詞

            暗い浮世のこの裏町を
              覗く冷たいこぼれ陽よ
                 なまじかけるな薄なさけ
                   夢も侘しい夜の花


            誰に踏まれて咲こうと散ろと
              いらぬお世話さ放っときな
                 渡る世間を舌打ちで
                   拗ねた私がなぜ悪い



 馨也さんは、大変な親思いの人であり、又兄弟思いの人でもあった。その情の深さにほだされることが多かった。又友人づきあいでも良くお酒が大へん好きで、愛嬌たっぷりふりまかれ、友人たちと共によく呑んだものだった。貴男のいつもの言葉に、私にはなにはなくとも幸いに多くの先輩、友人に恵まれているとの感謝の意を表されていた。その貴男の背後には陰となり日向となって相談相手の同じ隈府町出身である門下の三輪吉次郎氏のご健闘も称えられる。
 馨也さんは言う。私にとって、これといって学歴もなければ、詩歴もない。あるのは拙くも心を彫り骨を散りばめた、人生演歌の歌詞だけと。島田馨也、三百有余の作詞中大ヒットの「裏町人生」「夜霧のブルース」「人生航路」「花の熊本城」「アリランの歌」「青葉の笛」「純情一路」「懐かしのワルツ」「望郷の歌」「白虎隊」「軍国の母」「黒田武士」「泣き笑いの人生」他数えきれないヒット作が紫水会詩舞にも用いられている。
 詩作三十余年の歴史を貫かれたこの不屈の精神の表れは、東京・奥多摩湖畔に「湖底の故郷」の歌謡碑が建立され、四十六年には、「白虎隊」の歌碑が福島市会津若松の飯盛山山上に建立され、四十九年の秋十月に菊池市城山公園に島田馨也先生歌碑「望郷の賦」が、発起人前市長木下堅、現市長笠隆義、佐々守浩、奥山秀一、中村潔、野田幸友、上野松記、相良守庸、荒木俊雄、安永正民、古賀一男、山内正章、寺沢信江、松本丁己、野口貞以上の先輩有志によって建立された。
 歳月は花と咲き、花と散って、また花と咲く。歌は思い出であり、歌の花も遠きに咲き、近くに薫る。そして懐かしい郷愁を私たちの胸に宿してくれるとは貴男の心情であった。我が歌の旅三十年と題する祝賀が其処、此処に盛大に島田馨也生涯における最良の日の盛典が九州男児功なりとげて今日は馨也の晴れ姿。
 右で歌書き、左で呑んで気分良かたい吟ずるバイ、酒の中から心の歌を花と咲かせる良か男、波止場気質や裏町人生、さすが男の血が通う肥後の名物数々あれど、一に清正二に馨也、諧謔まじりの歌も飛び出す馨也氏最良の日があった。
 人生は全くの無情、ふとしたことから氏は体調をそこね病気を併発、東京において療養中、奥様の必死の看護にもかかわらず、昭和五十二年十一月二十日、六十九歳を最後として、帰らぬ人となり永眠に旅立たれた。貴男は自らの信ずる道をただひたすらに明日への希望と夢を失わず、作詞生活三十余年人生苦闘の歴史を貫かれて成功、不屈の精神は永遠に消えず歌詞となって残り傑作集のヒット中のヒット「裏町人生」の歌は街から村へ歌い続けられるのです。
 静かにお眠り下さい。私の友島田馨也先生。貴殿のご冥福を心からお祈りしてお別れいたします。
   サヨウナラ、島田馨也さん。                合掌
 昭和五十七年十一月二十六日、熊本市手取本町下通り、山小屋ブラザーヒル店前に島田馨也先生「裏町人生」の歌謡碑が同店社長宮崎豊記氏発起人によって建立され、記念除幕式が行われた。東京よりは節子夫人、真弓、真琴、強志君のお子さん達ご一家の参加、地元よりは熊本県副知事、星子市長三輪吉次郎氏他友人、菊池よりは、野田幸友先生、野口貞が招待参加、三輪吉次郎の司会進行により盛大なる記念祝賀会となり、島田馨也作新相馬節に題すを私が吟じ、会の盛り上がり、尚盛人なる記念祝賀会が行われた、宮崎豊記社長さんは、馨也さんの後援会長であって、熱心なるファンであり、全般的にお世話願った後援者である。


 上記の自伝にまつわり、息子の「野口かなとこ」さんが、所属する俳句の同人誌に掲載されたエッセイを掲載します。

南の島に雪が降る
 映画館は子供の頃の遊び場のひとつであった。娯楽の少ない時代、九州の片田舎にも二つの映画館があり一つは家から五十メートル先にあるものだから映画館の脇の看板書きの部屋を素通りして沢山の映画を観た。中でも印象に残っている作品の一つに加東大介主演の「南の島に雪が降る」がある。昭和十八年十月八日の夜、前進座の俳優加東大介は楽屋で招集を受けユーギニア戦線へ。敗色すでに濃いジャングルで死の淵をさ迷う兵達を鼓舞するために「劇団」づくりを命じられた。舞台に降る雪に故国を見た兵達は痩せた胸を激しくふるわせた感動の映画である。子だくさんの家で育った私はいつも父と同じ布団で父の寝話を聞きながら育った。父は戦争の思い出ばかり出征地の南支広東のことを毎日語った。アマチュア青年劇団の座長を務める程演劇好きな父は、同様に各部隊に呼びかけ「にわか劇団」を作り演芸会を企画した。映画みたいな話とよく言うが私の父も広東に雪を降らせたのだろうか。


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